《新風青嵐の放談コラム》3月号/最終回

大海と、空の高さと、土の温もりと

「笑顔にかえて…」

 『踏み出す勇気』
 本年1回目の北海道畑作青果対策本部委員会(4/15)の帰路、車中で「あれも言い忘れた、そういえばこれを質問するんだった…」と道青協役員としての”ほろ苦デビュー”を整理し帰宅すると、今春新1年生になった末娘が、目を輝かせながら
『自転車に乗れた!』
と嬉しそうにはしゃいでいる。春休み中にインフルエンザにかかりマスターできず、本人も姉兄も少しへこんでいたところだったので家族中大喜びだ。

『お父さんに乗れるところを見せてあげる』
というので、日も落ち薄暗い中、最初の一漕ぎでみごとバランスを取り自転車は進み出した。思いっきり誉めてやった。
『今度はお父さんのところまで来てごらん。』
と少し距離を長くすると少し登りに向かっていたせいか一漕ぎの脚力が足りずに失速し転んでしまう。泣き出してしまうかと思ったが、再チャレンジだ。思わず駆け寄り後ろから支え軽く押してやると、そんな介添えが嘘のように自転車がぐんぐんと加速していくのである。

 そうなのだ、私もおぼつかない足取りでやっと踏み込めている一人で、沢山の同士盟友に支えられながら力強く後押しをされている小さな人間、農業人なのだと今更のように思うのである。おそらくこの愛娘は明日にはもっと乗れるようになり、またそれが楽しくて仕方がないのだ。
 娘の姿にだぶらせ、そうあるべきなのだと自身に言い聞かせて今夜も睡魔と闘いながらパソコンで青年部のフォルダーを開くのである。
(平成14年4月 道青協役員プロフィールから)

 この年、小学校6年生の長女は今春、高校生です。
振り返ると人生40年の内、10年間を農協青年部の役員として過ごしてきました。時流のはやさに戸惑い、自分を見失わないように生きていくのが精一杯だったかもしれません。

 春は、別れと旅立ちの季節。
 そして、自分もこの立場にひとつの整理をつける時がきて、最終回の想いを託してみます。

【始まりは暴走族気分…?】
 平成8年から単組の副部長を2年務め、組織活動の意義や楽しさとは何かの源流を体感しました。
 十勝大会の広報誌コンクールと活動実績発表の二冠を制したのは、ただ、ただよりよいものを創りたかった…それだけでした。
 全道大会は緊張とそのステージに立つ嬉しさで足がふるえました。今振り返ると、足りないものだらけでしたが(近年の発表技術とプレゼンの能力の高さには脱帽…)多くの先輩に可愛がられました。

 仲間と何かをやり遂げることの達成感の高さを共有しました。このことがなかったら、ここまでやれなかったかもしれない…
 表現は正しくないかもしれませんが、素晴らしくデコレートした暴走族の車輌も、例えば一台だけの暴走行為ならワクワクしないのではないでしょうか?きっと、それは同じ目的を、共有する“仲間”とつるむからこそ、ワクワク、ドキドキするのだろうと思います。

【理論武装のトレーニング】
 平成10年から2年間は部長として、十勝の僚友達とスクラムを組みました。
 役員選考委員や、組織対策検討委員として携わり、役員選考の在り方や方法などを議論し改変を実行しました。このシステムが構築されないでいたら、自身の今のステージがなかったと思うと、なぜか不思議な感じがします。成るときには成るようにしか成らない…

 地区の海外研修にも副団長の立場で参加しました。
 当時の研修団のメンバーが今、単組の部長や、十勝の役員になっていて隔世の感です。このころから伝える工夫として、いわゆる『平私案』や『平メモ』、『平ペーパー』などを活用しました。

 平成12年、十勝地区青協の副会長になったとき、道産豆類の消費地懇談会に出席することになりましたが、このことが自分にとって“産地”というものを背負った理論武装とは何かを強く意識してそれを学んだきっかけになりました。
 そしてそのトレーニングと、会議の予習、復習がいかに大切なことかをその業界では重鎮的存在である全国和菓子協会の藪専務との議論のなかで身につけたように思います。

 特に、この時期はたくさんの出会いや経験から多くのものを吸収し、自分のなかの萌芽力を鍛えた時期でありました。

【時代の当事者】
 平成12年は十勝地区農青協副会長の立場で50周年を、平成13年は道青協の50周年を十勝地区の会長の立場で関わることになりました。
 時代の節目を生きた証人としてかけがえのない友人、僚友に出会い共に汗を流しました。

 特に、平成13年度の道青協役員人事で選考委員長を務めた村元さん(後志)や姉崎さん(石狩)には今の自分の生みの親になってくれて、自身にとって大恩人です。
 この年の地区会長には私と同い年の方が多かったから、勝手に昭和40年会を立ち上げて多いに盛り上がりました。道南の西谷さん、日胆の木戸さん、空知の黒田さん、釧路の松井さん。皆さん個性派で、この年の思い入れは特に強いです。

 さらに、平成13年は『農業構造改革推進のための経営政策』、いわゆる経営政策大綱の組織討議にかかり、JA青年部の政策議論に課せられる責任の重さを正面から感じることになるのですが、わからないことだらけだったので猛勉強しました。後輩達と何を言い、何をやるべきなのかを考えたのです。
 今、政策転換でその基本的なスタンスとなった、『努力したものが報われる…』は、この時、十勝の青年部から発したものがベースになっています。
オリジナルは
『より経営努力、より営農努力した者がより報われるべき経営政策でなければならない。』
 中央で、例えば、永田町、霞ヶ関や大手町でこのフレーズに触れるとき、背中がゾクゾクします。
『今、俺達が時代を動かしているんだ!』
…と。その時の学習欲が今の自分を支えているように思います。

 また、農水省の農業災害補償制度の検討委員に選任され、本道の畑作共済加入者の担い手を代表して約一年間、検討会に出席しました。このことが経営所得安定対策のセーフティーネットについて語るとき、貴重な栄養素材になりました。
 ひとりぼっちで初めて上京した心細さを今でも忘れません。

【魔法の合い言葉】
 平成14年から道青協副会長(畑作青果担当)を務めるようになって、約月いちの対策本部委員会は、自身を鍛える貴重な場所になりました。
 冒頭の“踏み出す勇気”はその一回目のエピソードである。

 副会長とはいえ、解らないことだらけだったので、谷村会長や、中原、中島両副会長の後をついていくのがやっとでしたが、この年は政策課題も多く、BSE対策や、DONの対処、種苗法違反問題や、タマネギの産地廃棄などそれを議論する最前列にいました。
 青年部役員OBの組合長さん達によく可愛がられましたが、今思えば、すごく肩に力が入っていたと思います。

特に、米政策大綱が議論される中で、上京のおり中川義雄議員から、
「北海道畑作を良くしていこうと思うのだったら、米の政策を勉強しなくてはだめだ。」
と言われたのが印象的でした。この時期の基礎学習が、後にずいぶん役にたちました。

 平成15年、2年目の副会長時代は中原会長を支え(支え切れていなかったかもしれませんが…)、来るべき政策議論に主人公としての役割を自覚していたように思います。この時、既に中原マジックにかかっていたのかもしれません。

 この年のハイライトは、農水省大臣官房企画評価課の現地ヒアリングを受け入れたときでした。
 この時から品目横断の議論がスタートしたと業界では言われていますが、当時の関係者が集うと、つい盛り上がってしまうのは、いわゆる野球議論をベースに“プロ農業者”を主張してきたことに現場の多くの賛同を得たからでした。
ちなみに、この年、阪神タイガースが優勝しています。アンチ巨人の自身はおおいに溜飲を下げましたが、『4番バッターばかりのチームでは…』のネタも、この頃仕込んでおいたものです。長男の少年野球チームの伸びシロが一番大きかった時期だから、野球理論の傾倒度が高かいわけです。

 さらに、この年度内に原体制のもと召集された全青協の基本政策検討委員会で各方面にコネクションを持てた事は、自身の大きな財産であると同時に、関わるすべての人に心身ともに大きく育てられました。

【向かい風の新風を受けて】
 平成16年、道青協会長就任早々、農水省の有識者ヒアリングという大舞台は北海道農業(特に畑作)に大きな自己発信の場所を与えていただきました。
 誤解を受けてはいけないので注釈を入れると、有識者の選任は、道青協畑作担当の副会長の立場で引き受けたので、『じゃあ、北海道稲作は?酪農は守備範囲じゃないの?』と言われれば、正直苦労しましたが、それでもその前後は関係者に迷惑がかからないようにけっこう神経質になっていました。

 しかし、前年の現地ヒアリングからの伏線はみごとなもので、皆川企画評価課長(H15当時、あの変わった“バンザイ”をするひと)が紹介時に、
『…ちなみに平さんの奥さんは元スピードスケートの選手であります。』
が、農水省の議事録にアップされたことは今でも語りぐさになっていて、マダムヒラリーはこの頃から霞ヶ関の一部では有名人です。

 このヒアリングのすぐ後、北海道新聞から取材を受けて経済欄に掲載されることになるが、地元の方や、旧友から『頑張ってますねー!』と激励を受けて、大きなパワーをいただきました。
 この時の繋がりから企画部会委員の九州は福岡県・JAおんがの、安高組合長にはヒアリングの反響のメール集を送っていただき、お礼のメールのフレーズに、
「…食糧基地北海道の更に農業王国といわれている十勝のこの大きな井戸の底にいて単なる“百姓”の兄ちゃんで終生していれば、こんな大海を知ることがなかったのか…」
を受けて、安高組合長が
「井の中の蛙、大海を知らず、されど空の高さを知り、土の温もりを知る」
と切り替えして、協同出版の“経営実務”に入稿されたのです。
 ちなみに、このフレーズをコラムの表題に拝借させていただきました。

 現在でも、このときのことが政策議論を加速させたと、評価されているようです。
 同時に、例えば“捨て作批判”は大きな波紋をよびましたが、対称軸が明確になったのか、北海道畑作の生産環境の注目度が増しました。
 このあたりを境に、青年部役員、盟友の現場に中央からのヒアリングが多くなるのです。

 また、忘れ得ないもうひとつの大舞台が、7月九段下の全国代表者集会の意見表明であった。前日、東京大手町は39.5度のうだるような暑さの中、会場の温度をさらに上げてきました。
『会議室のテーブルからは…』
は、してやったりでしたが、その時はそれで良かったのだと思います。

そして、この年は、全青協の理事という立場で50周年の記念事業に携わりましたが、多くの僚友と人生を交錯することとなり、新綱領の策定に汗を流しました。
作文ばかりを書いていましたが、ひとつひとつが手ごたえとなって自身の血となり肉となったように思います。

【土塊の農人の魂の叫び】
 平成17年度は既に、放談コラムでお繋ぎできているとは思うのですが、これほどドラマチックに展開するとは想像していませんでした。
 たくさんの人に出会い、その人達を愛し、そして繰り広げられるのは、まさに“ひら劇場”…
 特筆すべきは、ジュネーブへ向けてのマーチ、そして東京に向けての青春チャリンコリレーでした。
 とにかくよく歩いた…駆けた…(一皮むけてより逞しくなったの評価は正しい…かな?)なにより、貴重な生涯の友と巡り会い、その時間を共有したことは、組織活動の源流に遡及するものです。
 いまひとつは、経営所得安定対策等大綱の決定前週、永田町での組織代表の意見表明で、北海道の複雑な政治風土のなかにあって、脂汗と、冷や汗をかきながら脱線しそうな政策議論を引き戻し、軌道に乗せた(…と評価されている)事でした。
 実は、このころが、正直いろんな意味で一番つらかった…

【次代を支える土となる】
 気がつくと、もう賞味期限が切れていた…
『そんな説明じゃ、納得いかないぞ!』
と、お叱りを受けましたが、期待にそえない自身の能力の無さをこれほど恨むことはありません。
 まだ、生々しい部分もありますが、
『そんなことや、あんなことのそれは、実はこうだったんだよねー』
と、笑って振り返れる時が必ず来ると思います。
 しかし、この結果は次の時代を担う若者を支える土になることを(多少、栄養に偏りがあるかもしれないが…)期待して止みません。

 なぜか、新年度間近になって僚友達を病魔が襲い、自身の身代わりになっているようでつらかったでしたが、あわせて人生のサイコロの目なんて本当にどんな風に振られるか分からないものだと思うとき、10年前のワクワクしていた何かの答えは、実はもう少し先にあるような気になってくるのです。
 また、新たな種を植える作業を始めようと思います…
 どんな花を咲かせ、実を結ぶかドキドキしていますが、今はそれもまたもう少し先の話です。

【和を継ぐ】
 新たな出会いが、明日を動かす原動力になることを信じる
“希望の大地”は胸の中にあるビジョンであったり、理想郷であったり様々…
その“大地”を、愛する家族や仲間と共に耕し、夢育む種を播き、郷土の和を次代に継承していこう!
 これからの青年部活動が、皆さんと共に汗を流し、大地の暖かさを感じる事が出来るような楽しく充実したものになりますように…

 長い間支えていただき、ありがとうございました。
一年間のご愛読を感謝いたします。

平成18年3月31日

Copyright(C) 2007-2008 ひら農園 All rights reserved.

inserted by FC2 system