《続・新風青嵐の放談コラム》男のロマン号

土根にはえ、風と生きる

「胸の中の秘宝」

 コラム9月号の“僕が彼女を好きになった…”は自分でも出色かなぁ…と思っていたので、その号を女性ファンから誉められると“夜の会議編・カーテンコールにこたえて”(H17最終回号)で、見切られていた女性ファンを取り返したのでは…と一人ほくそ笑んでいました。

 ただ、政策議論の長稿がこのところ続いたので、青年部の盟友や業界関係者はいいとして、一般の方の、ことによるとそちらの方のほうが場合によっては貴重かつ奇特なコラムファンから『難しいです…』との指摘をうけて、さーて…どんなネタがいいかなぁ…と、考えを巡らせていました。

 そんな収穫の時…
 実はずっと温めていたお話が、ある日突然回路が繋がりかけて…
 いにしえにはせるロマン&ミステリーをつづってみましょう。

【洞窟】
 幼なじみだった“ナオちゃん”の家に行くには、車でも10分はかかりました。
 初めて“ナオちゃん”にあったのが、保育所にあがる前だから、5歳ぐらいにはなっていたと思います。
 誰でもそうですが、その年頃の子供は夢見がちで色んなものに影響されやすく、しかも視野や社会性が狭い…でも、強烈なシーンや印象深い光景は断片的に覚えていたりするものです。

 僕もそう…、何故か彼の家に行く道すがらみた“それ”を今でも忘れることが出来ません。
 それは、ある日の夕刻、自宅から上流のダムに向かって父が運転し、祖父と一緒だった車内から見た光景です。

 洞窟…

 季節は…、覚えていません、夏かも…
 車中にはなぜか母や、祖母はいなかったと思います。いや、記憶がない…

 日は暮れていましたが、十勝川に削られた断崖に漆黒の穴をこちらに向けて、何かが這い出してきそうな大きな洞穴が、道路から見えるのです。はっきりと…
 思わず、
「なに?あれ!」
と叫んでしまいました。父や祖父は答えてくれません…

 やがて“ナオちゃん”の家に着きました。
 僕はその大きな“洞窟”が気になって“ナオちゃん”に聞いてみました。
「あのさー、ガンケに大きな洞穴あるけど知ってた?見たことある?」
「知ってるよ!アソコには怪獣がいるんだよ。だから誰も近づかないし大人でも何なのか教えてくれないだろう?」
「そうか…、怪獣がいるんだ…」

 “ナオちゃん”は僕と同じ歳でしたが何でも知っていました。
 ただ、僕はそれ以上聞くことが出来ませんでした。
 どんな怪獣なのか?人を食うのか?暴れないのか?防衛軍や自衛隊はこのことを知っているのか?
 …その夜、僕は恐くて寝られませんでした。洞穴の中はおそらく人骨が散乱しているに違いないと思いました。

 “ナオちゃん”のお父さんは営林署に勤めていて、小学校は別々になり結局中学校に進学する何年か前に転勤してしまいました。
 今では、どこで何をしているのか…わかりません。

【暗い図書館】
 小学4年生の時、担任の先生が独身の女性にかわり僕は気に入られようとしましたが、なかなかそりが合わず、おまけに少ないクラスメイトから孤立してしまいました。

 そのきっかけは僕と級友達が
「十勝川のガンケの下に大きな淵があって、親戚のおじさんがこの前、大きな虹鱒を釣った〜」
という会話に、その先生が
「ガンケって何?」
と聞いてきたことから始まりました。

「ガンケって…、先生知らないの?十勝川のあの大きな“崖”のことだよ。」
「じゃあ、崖でいいじゃないの。」
「違うよ、大きな“崖”だからガンケって言うんだよ!」
「みんな、そうなの?」
「…ガケ…だよねぇ…」(←級友達)

 僕だけがガンケと言っていたのか?違う!周りの大人達だってみんなそういっているのに!先生はよそから来たからしようがないけど、あの“崖”は絶対ガンケって言うんだ…!

 ローティーンは案外正義感が強く、理不尽なことを許さない凛としたところがありますが、僕の場合それが特別強かったのか、これ以降しばらくこの先生や級友達に変な違和感を覚えてしまい自分から心を開こうとしませんでした。

 小さいときから本が好きだった。

 だからというわけではないですが、学校にいる時、いたたまれなくなって避難する場所がいつも図書室でした。
 たくさんの本を読みました。今考えたら文系よりは理系が多くて、両親からの誕生プレゼントやお小遣いで買うのは学研のシリーズもので、いまでいう“オーパーツ”や”UFO・未確認生命体”や“ミステリー怪奇現象”でした。

 その中で、特にお気に入りだったのが“世界の秘宝・日本の秘宝”シリーズでした。
 僕は、この本の中でアイヌの埋蔵金の記述について、それこそ穴が開くくらい何度も何度も読み返して、大人になったら絶対その在処を突き止めてやると…ワクワクさせていました。
 小学校は古かったから、図書室はより暗く何か重たい雰囲気で、そんな空間で読む未知の知らない世界は小さい自身の心臓の鼓動を一層激しく、さらに興味を増す衝動の引き金になったのです。

 ガンケが“美蔓(びまん)断層”という地質学上貴重な物であることを知ったのも、郷土資料の“自然・環境”の本からでした。
 ちなみにガンケという呼称はこの土地特有の呼び名で、この屈足(くったり)という集落以外では、ガンケの意味を理解できるものはごく限られているようです。一説には入植者の出身県の方言からではないか、と言われていますが正確な語源はわかっていません。

 この美蔓断層は、十勝川により何千年と削層され現在の形に至たるのですが、例えば、初めて我が家に来られてこの“ガンケ”を見たお客さんは
「素晴らしいロケーションですね!」
と、感嘆の声をあげます。
 幽玄なその大崖の壮姿は自分にとってはむしろ身近な存在ではあるのですが、ワクワクする幼少の記憶に遺る洞穴と、シクリとする小学校時代のグレーな季節を複雑に交錯させて遅々脈々と母なる十勝川に今も削刻されているのです。

【伝説】
 その“ガンケ”に興味深いアイヌの伝説があることを知ったのは同じ郷土資料の“しんとくの史跡”からでしたが、その時私は既に大人になっていました。
 以下、原文のまま掲載します。

『カムイロキの由来』(新得町屈足34号)
 石狩と十勝の国境である狩勝峠から遠望するとき、東方に横たわる数条の台地があり、その中に、何カ所もの黄赤色の崖崩れが見ることができる。これをアイヌ人は「ウェンシリ」と言い、人の寄りつけないところから、悪いところとして名付けていたが、土地の人は一様に「クッタリガンケ」とか「十勝川ガンケ」と呼び、その裾を十勝の母なる川と言うべき十勝川が滔々と流れている。このガンケ(崖)の長さは約4キロメートルにも及び、その上流付近は特に厳しく屹立し、いずれも人間を寄せ付けない威厳すら感ずる。

 徳川幕府の命を受け、蝦夷地山川地理取調役として、蝦夷地(北海道)の探査に携わった松浦武四郎は、安政5年(1858年)3月14日の6回目の探査の時、空知川を渡り山々を越え十勝に分け入った。和人として内陸部の十勝に足を踏み入れたのは、これが最初だったという。この調査には、函館奉行の石狩下役1名とアイヌ人10人とされており、狩勝(この呼び名は後年つけられた)の峠に立つとき、眼前に展開する大樹海とその彼方に横たわるガンケを眺望し、感嘆の声をあげたとか…。これを目標にして踏査したと日誌にしたためられている。

 「本川(十勝川)の幅およそ50間(約90メートル)、崖の高さ数十尋(約100メートル)赤石まざりに頂き平に崩れており川は渦をまきて吼々として大波をたてて流れ、峨々たる岸壁の灰白色なる大岩の半腹に洞穴あり、これには神霊宿ると言い伝えあり、よって此処へは行くことが出来ない。此処より木幣を奉り礼拝するとかや。案内人のアイヌ人はこの地を『カムイロキ』と言えり、この風景実に筆紙に及ぶ処にあらず」と、絶賛の記述をもって徳川幕府に報文している。
 カムイロキとはアイヌ語で「熊の越年するところ、神様がお座りになっているところ」という意味であり、アイヌ伝説で言い伝えられたこの地は、十勝川筋の霊地であったようだ。これまでこのことについて、いろいろと記事があり、また「鬼斧するごとく、廉広鬼面に似、山皺折帯かと怪しまる」とも言われ、まるで鬼が斧を振るったような、ぎざぎざの岸壁、鬼の顔にも似たようにも、あるいは帯を折りたたんだようにも見える。などとも表現されている。

―中略―

 アイヌ伝説として語られるカムイロキは、神聖な場所であるとされ、近づいてはならぬ所だった。
 それを十勝日誌は「昔一人の若者がこの穴に入り、とうとう帰って来なかった。その息子もまた試みたが戻って来なかった」と言う記事があり、また「このカムイロキは昔、フレウ(フリイカム)という巨鳥が住んでいた所で、フレウは毎日遠く海まで行って、鯨や魚類を穫って食べ、その食べ残しや骨を、山のくぼみに投げ散らかしていたが人間に対していたずらはしなかった。ところがある日のこと、フレウがいつも飲み水にしていた綺麗な流れの小川を、メノコ(アイヌの娘・女)が尻をまくって渡ったのでフレウは大変怒ってメノコをくわえ、カムイロキに連れていき、そこへ投げ捨てた。フレウはこんな汚された所に入られないと、遠くの国へと飛び去ってしまった。絶壁の上に残されたメノコは、帰るにも帰られず、フレウの食べ残した骨などをしゃぶっていたが、それっきりどうなったか分からなくなってしまった。
 それから数年たった頃、一人の若者が熊狩りに行き道に迷い、鯨の骨など散らばっているところへ行ってみたら、ふしぎな女が現れ「連れていってくれ」といった。気味が悪いので一目散に逃げ帰ったものの、若者はそれから間もなく病気にかかって死んでしまった。
 それ以来コタン(アイヌの部落・村)の人たちはここを「ウェンシリ」と言うようになったが、そこには今も、フレウの棲んでいた穴が残っているという。」(アイヌ民話より)

 このように、屈足ガンケの一角であるカムイロキは、アイヌ人が発見し、松浦武四郎によって世に知らしめた地名であり、いろいろな言い伝えの中に存在し屈足に住む人々ばかりでなく新得町全体のシンボルでもある。

―しんとくの史跡・H6/3新得町郷土研究会発刊― から

【生きているアイヌ語】
 北海道の地名はアイヌ語地名に漢字を当てている場合が多いです。
 例えば○○ウシは○○が在るところ、○○ベツのベツ、またはペツは川、河を表しているし、○○ナイのナイは沢を意味しています。
 まれに、アイヌ語意を日本語(この場合和人語と言う解釈が正しい…?)に翻訳し、意味する漢字が当てられた場合もありますが、概して人の身体の部位を当てはめて地理的特徴を言い表しているケースが多いです。
 例えば、モイワ・モノワ(藻岩、茂岩…)。
 モイ、モノは山頂を意味することとあわせて、女性の柔らかで豊かな秘所を表しているといいます。転じて、穏やかな…、形の良い…、あるいは神聖な…と言う意味が内在しています。
 実は、地名において特に東北、九州以南にはアイヌ語から転じてそのまま漢字が当てはめていたり、祖語源語がアイヌ語に由来するものが多いと言語学の研究者が力説することを知りました。
 大変興味深いものですが、それはまた、失われた北海道古代史や原日本人を考察するサイエンサーのレポが揃ってからあらためてその機会を持つとしましょう…

 さて、自身の居住地“屈足(くったり)”はアイヌ語で“クッタラウシ”。“イタドリ(タデ科の植物)の生えている場所”という意味で、事実この地域の河岸段丘の未墾地はイタドリが大群生しています。
 ちなみに、このイタドリ、漢字では“虎杖”と書き、古老によると戦中はこの葉を乾燥させタバコの原料にしたといいますが、今ではその利用価値は養殖ウニの餌ぐらいで、圃場付帯の古い明渠や糊面にはびこり、草刈り時の厄介者です。

 さらに、興味深く松浦武四郎の十勝日誌を読み解くと、当時十勝の河川域には比較的大きなコタンが三箇所ほどありその一つが、十勝川上流東岸のアイヌの霊地“カムイロキ”を拝する場所にあったと記されていて、広義的な意味で“クッタラウシ”にそのコタンがあったことになります。
 また、“灰白色なる大岩の半腹に洞穴”はその入り口から対峙して“モノワ山”の全景を間近に仰ぐことができるとあり、このモノワ山もその呼称から言ってアイヌにとって愛すべき美しい山だったのでしょう。
 現在、その山の名は“パンケ山”とされ、この地域の小学校歌に唱いこまれています。  標高515mの穏やかなモノワは降り積もる時代の塵に埋没し、アイヌ名はもはや文献でのみしかその古名を確認することができないでいます。

【秘宝の在処】
 十勝川水系に伝わるアイヌの伝説は、当地屈足のガンケの伝承が最もドラマチックですが、それもまた好事家のロマンをかき立てるのに余りあるものです。
 しかも、その伝説には“埋蔵金”の尾ひれが付いてまわったりするのだから、トレジャーハンティングの垂涎の的で在ることには異論がありません。

 ここより先は、自身の仮説と創作です。

 古くから言われているアイヌの埋蔵金は、蝦夷地開拓によるアイヌの和人同化施策に危機感を持ったアイヌが砂金などの秘宝を和人に触れないようにするための、いわゆるレジスタンス的反抗行為からなるものと解釈されていますが、はたしてそうでしょうか?

 そもそも、アイヌの埋蔵金はアイヌが“所有していた”埋蔵金だったのでしょうか?
 いにしえに伝わる伝承、口承であるならばその時々の社会背景や事象に左右されますがアイヌの生活スタイル自体、ひじょうに和睦的であり平和的採取生活が基本で安定的だったとされています。“金銀”がナチュラルエコなライフスタイルをとるアイヌにとってどれほどの価値があったでしょう?

 しかし、アイヌは“金”の価値は知らなくともその在処、たとえば金鉱脈を知っていたとしたら…、あるいは誰かに教えられていたとしたら…
 想像の種は尽きません。

【人はどこから来た…?】
 たとえば、アイヌの祖先はどこから来たのか?
 元々北海道に土着していた…と思いがちですが、アイヌの長老が語る口承ではどうも違うようです。

 原アイヌ(縄文人の一部?)の起源は東南アジア・南方系からのルート、ないしは北からのイヌイットを起源にするルートからユーラシア大陸の東端の島々に土着していったとされています。
 まだ、“国”という概念がなかった頃…、アイヌの祖先は暖かで豊かな土地に広く穏やかに暮らしていたのでしょう。

 しかし、大陸からの渡来人が浸入してから様相は一変します。
 その渡来人は「青銅、鉄器」と「稲」と「文字」をもってアイヌの生活を侵していきました。おそらく最初に上陸したのは北九州、あるいは山陰(出雲、隠岐)、やがて奈良の盆地におさまります。

 土着のアイヌ民族はある者は九州の南に逃げ、ある者は東に北に逃げ、またあるものは在来化しつつある渡来人(弥生人)と交合し、また降伏同化する者もありました。
 在野に隠れ生き延びた者や山に身を隠す者もあったでしょう。
 それらを例えば、“鬼”“ツチグモ”“山の民”などと言い伝えたのではないでしょうか。
 “鬼”の伝承はやがて民話のかたちから系統だって自然発生し、“神楽”のようなシャーマニズムの原型と融合して、総じて「鬼退治」的ストーリーに特化していきます。
(昨年、自身が招かれたJA青年中四国大会の広島県三次市での神楽はまさにその典型と言っていいでしょう。)

 討伐する者達は東に、北に逃げる彼等を“蝦夷(えみし)”、それらの住む地域を“蝦夷地(えぞち)”と蔑みアイヌを押しやりました。
 先月(H18,11月)、自転車会の同窓会でお邪魔した津軽地方は都市毎に独自のネプタ、またはネブタを形成し興味深いですが、五所川原の立ちネプタは圧巻でした。思わず立ちすくみあまりの勇壮さに不覚にも涙がこぼれてしまいましたが、この“ネプタ”の起源には諸説があります。

 時の蝦夷地制圧に派遣された征夷大将軍、坂上田村麻呂が山野に逃げ隠れる“蝦夷”(アイヌ)をおびき寄せるため、大きな張りぼてを灯籠に仕立て興味を引きこれを討伐したという逸話がありますが、アイヌ語で「あれは何だ?」を“ネプタ”と呼ぶところからつけられたとする説は面白いです。
 海峡をはさむ彼の地、青森でもアイヌの無形有形の文化が息づいていることに、大きな親和を覚えるのです。

【神秘の民・コロポックル】
 このようにして、アイヌは北へ北へと逃れるのですが、元々北海道に棲んでいたアイヌとの諍いもあっただろうし、謎の民族“コロポックル”との関わりもアイヌ自身から古くから言い伝わっています。

 ちなみに、研究者の一部には“コロポックル”こそが原日本人・大和民族だと主張し、石器時代を担った者として例えば、“明石原人”などがそれに当たるとしていますが、決定的な物証が乏しく未だ推測の範疇です。

 ただ、アイヌの生活・文化に“コロポックル”の存在が大きく影響したのは間違いないようで、アイヌにして神秘の民と言わしめる小人“コロポックル”には、森や河と同化することができる特殊な能力を持っていたとされています。
 異能者は多くの者を治め、私達が想像するよりもはるかに賢く幸福で豊に暮らしていたに違いありません。それらを範としてアイヌも賢く生きようとしたのではないでしょうか…
 アイヌは必要以上のものを欲しないし、何かの加減で不漁不作だったりしてもコロポックルが助けてくれたと言い伝えられていますが、北海道アイヌの暮らしぶりは、大変貧しいものだったという概念は和人的視点の域を出ません。

 そして、“コロポックル”の知り得る、例えば金鉱脈を伝承というかたちでアイヌが継受していたら…
 今に伝わるアイヌの埋蔵金伝説の源流にたどり着きそうです…
 あるいは、東北地方においてアイヌと時の権力者との闘いは熾烈なものであったと言われていますが、東北は金山の多いところです。それらの記憶が北海道に渡りコロポックルを介し逆に照射されていたとしたら…

【ウェンシリ・悠久の時を刻む】
 伝説の中にも、私の幼少の小さな胸にもやはり怪鳥は生きていまいした。
 カムイロキの大きな洞穴の中に巣作っていたのです。
 そして怪鳥フレウ…、不思議なメノコ…、帰らなかったアイヌの親子…、悪い崖ウェンシリ…近づいてはならないとする伏線を幾重にもして、予防線を張るのは何故か?

 その洞窟には、やはりそれが隠されているのです。
 伝説の埋蔵金…
 こんな近くにあったとは…

 解けかかるパズルの、あとワンピースを手のひらにのせて、ガンケを眺めるとき、小学校の時の図書室で体験した弾けそうな心臓の高鳴りは、秘宝の価値や在処を見いだすことよりもずっと大切なものを胸の奥にしまっていたのだと思いました。

 あれから、30年以上の月日がたち、“ナオちゃん”のいた官舎は更地になって雑木が繁茂し、ガンケの洞窟は随分早くに崩れてしまい今はダムの下に埋没してしまいました。
 小学校は新しい校舎に建て替えられて、その新校舎も今は閉校。

 ただ変わらないのは、岩を削る十勝川の流音のみです。
 今も、そしてこれからも、その音は悠久の時を未来へと刻み続けるのです。

 伝説の秘宝をダム湖の底に眠らせながら…

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