《新・新風青嵐の放談コラム‘07》春陽青新の最終回号(その1)

森羅の夢に果てるまで

「動かす想い」

「人生のサイコロの目なんて、どんな風にふられるか分からないもので…」
 200名を超える盟友を前に、そんな出だしから始まった道青協副会長の就任挨拶(H14/4)をしてから6年。
 自身の背中を押してきたものと、踏み出す勇気から伝わる何かがあるのなら…出逢うもの、触れるもの全てに感応するその時々をスクリーンに映し出して(なるべく過去コラムのネタとかぶらないように)振り返るコラム最終回シリーズ〜

【不良青年を動かしたもの】
 就農した年…
 20歳で、当時の若者を“ニュータイプ(新人類)”などと揶揄されていた時代に、たぶん私もその部類に入っていたのかも知れません。(本人に自覚はありませんでしたが〜)
 その年の春耕間際の某日、農協青年部の三名の役員の方が
「農協青年部に入って下さい。」
と、勧誘にこられました。今考えたら、大変ご苦労な事だったと思います。
 当時、単組では創立30周年事業を間近にひかえた時期。振り返ると、農協青年部に一番活気があった、元気だった…そんな時代だったでしょう。

『農協青年部?そんなダッサイの、はいってられっかー!』

 ピカピカの農業人一年生には、上は40歳を超えて手垢のついたオッチャン達の集団なんかに魅力的なものを感じることができず(自分で勝手に思いこんでいただけなんだけど…)、それでも当時農協の理事をしていた親父の手前、全拒否するわけにもいかず渋々
「では、名前だけでも…」
と、ネガティブな若者らしく入部することになるのです。

《コラムinコラム》
〜ちなみに、“JA青年部”とか、“JA YOUTH”とか言われるようになったのはそれから10年ぐらい経ってから…全青協が40周年を迎えるのを契機にJA青年の歌『君と』や、イモムシマークと共に愛称化されるのでした〜

 “名前だけ部員”当時の役員はそんなネガティブ青年に頭を悩ませたことでしょう…もしかすると今もそんな悩みを抱く単組の役員さんはけっこういるのでしょう。

 そもそも、当時の農村青年のステージはそのジェネレーションによって微妙な守備範囲を形成していたのです。
 結婚するまでは、“青年会”で女の子達とイチャイチャしながらも、それでも社会教育や地域貢献や町づくり、町おこしのなんたるかを学び、結婚してからは町内若手農業後継者の研究サークルでいわゆるプロジェクト活動に没頭したりして、(全国大会…良い想い出です)農協青年部活動に挺身するほど強力な動議付けが私にはありませんでした。

 平成7年11月
 そんな農協青年部の総会などには一度も参加したことがない自称不良部員に
「十勝大会でさ〜、今度壁新聞コンクールやるんだってよぉ〜手伝ってもらえないべか?」
と、声がかかるのでした。
 中学、高校と生徒会が主催するクラス対抗の壁新聞コンクールでは、稚拙な技術と幼稚な記事ながら、その作成の中心メンバーにいたことを、既に青年部役員をやっていた高校、大学来の友人が想い出し、『だったら手伝わせてみるべや〜』となってのオファー。
 そのころ、親父はJAの常勤役員をしていましたから、特に青年部関係の事業で面倒なことは引き受けないようにしていましたし、そもそも私自身、言うほど能力が足りていませんでしたからオトコ一人でいっぱいいっぱいだったのが正直なところ…
 それでも、友人に『助けてくれ…』と言われたら知らんぷりはできません。
 壁新聞はソコソコいいものができて、それでも最優秀賞をのがしての銀賞に
「来年はもっと良いもの創るべやぁ〜」
「じゃあ、新年度副部長やってくれな!金賞目指してがんばろうぜ!たのむな!」
と、なって不良青年は、やがて腰まで、肩まで、青年部活動にどっぷり浸かりながら、不良更正の道を歩みだしていくのです。

【達成感と反骨精神】
 結局、副部長の2年目(H9)、自身が手がけてから3回目の十勝大会の壁新聞コンクールで金賞を獲得。その年は活動実績発表の当該単組でもあったので、連日の準備は1週間以上の深夜に及ぶもその中から、多くの達成感を関わった仲間達と共有して、十勝大会を勝ち抜き全道大会の発表者として切符を手に入れるのです。
 この時の、ドキドキワクワクする仲間と連む暴走族気分の達成感が、自身を大きく動かしていったのだと思うのですが…

 動かす想いのもう一つ…
 翌年度(H10)、部長を託されて、当時実質の活動部員が10名いるか、いないような弱少単組の組織強化にのりだそうとしたところ、ある部長経験者の先輩からこんな忠告を受けるのです。
「地区青協の部長会議に行っても、余計なことしゃべってくるなよ…役員にされちゃうぞ。」
“帯広は農協連ビルで年に6回ほどある部長会議で、言いたいことを言ってしまうと『おっ!…ちょっとはできるヤツかな?』と思われて、地区青協の役員にされちゃうしそんな風になったら年間100日くらいは青年部関係で家を空けることになるからたいへんだぞ…”

 そんな意味の忠告だったのでしょうが、その言葉に大きな違和感を感じて、しかも『俺達百姓って、なんでこんなにダメなんだろうね〜』の根幹や、他人任せを気にしないで、そんなトレーニングに汗かくことをできない…、しない…ことを平気な、いわゆる『甘えの百姓根性』の底流を観たようで強い反感を覚えるのでした。

《コラムinコラム》
〜このことを、『失われた10年』の題で道青協HPのH19/10月号で、アップするのですが、少なくとも『十勝』であれば、その体裁から言って士幌の高橋氏(19代道青協会長)から数えて、上士幌の西原氏(H9〜10十勝地区農青協31代会長)を道青協の副会長に出すまでの約10年間、道青協役員をスルーにしてきたことは異常なのことだと思います。(もちろん、その間の先輩達が有能でなかった…なんて事を言っているのではありませんが〜)
 その原因が「地区青協の部長会議に行っても、余計なことしゃべってくるな…」だとしたら看過できないと思うのです。(十勝モンローチックでしょうか?)〜

 僚友達と共鳴した達成感を縦糸に、そんな反骨精神を横糸にして『何かを変えなきゃ…』と、もがきながら手探りで踏み出す自身には、やはり当時は足りないものだらけだったことを今更ながらに振り返ってみるのですが、そんなものを原動力にして突き動かされていくのです。

【政策議論の萌芽】
 平成13年…国内初のBSEが確認され、同時多発テロが起きた年。私は地区の会長をしていました。
 十勝地区青協という大きな井戸の底にいて、そのトップリーダーを任されて巡り合うものは“知らない、足りない”自身を強力に研磨していくのです。

 特に、農業構造改革の基礎議論については担い手として当事者に求められているものの高さをより直接的に感じるのですが、同時にそれは農業者にとっても、JA青年部にとっても、更にはこの十勝の農業者にとっても、政策議論をやりつけていない…弱点であることを改めて浮き彫りにしていきました。
 たとえばその年の8月、農水省の研究会は関連する組織討議の声をベースに『農業構造改革のための経営政策』をまとめました。
 この中で優先順位から言って経営所得安定対策を導入するべき経営体は二つ…“稲作経営体と大規模畑作経営”と整理されていることを、大手町でも、札幌でも、もちろん帯広でも、当時でも、そして今でも、認識している方はごくごく少数です。
 つまり、あれほどまでに大々的にアドバルーンとアナウンスを入れてやってきた業界の組織討議が、他人(中央会の事務局orどこか知らない大学の偉い先生)任せになっていたか、もしくは単協の担当課長や部長の机の肥やしになっていたかを、端的に表していたことにならないでしょうか?

 その組織討議にかかり、地区青協の意見集約は結果的に後発になってしまいましたが、それでも“意見集約お〜わり!シャン!シャン!シャン!”にしないで、この議論を定点観測していきましょう〜と、作戦を立てたのは後に道青協、または十勝の盟友にとっての、農業政策議論に対して大きなアドバンテージとなるのでした。
 ちなみに、意見集約でまとめられたものは以下の三点です。
『中長期的に安定的な経営所得対策の制度であるべき』
『多くの国民に理解され、支持される制度であるべき』
『より営農努力より経営努力した者こそ、より報われる経営政策であるべき』

 もしも、その時、空知の会長の黒田氏に『本作、捨作』なんて言葉を聞いていなかったら…(H13、6月第2回地区会長会議懇親会)
 もしも、その時、経営所得安定対策の組織討議がJAグループでなされていなかったら…
 思いつかなかったこと、気付かなかったこと、ましてや自分たちの弱点を知ることなどできなかったと思います。

 単組には単組のできることがあって、同時にできないこともあります。できないこと…、たとえば、農政課題をあぶり出し、政策議論を構築するのは地区青協が、道青協が、やらなくてはならないことで、そのためにかかなくてはならない汗があることを、この時知るのでした。

【防除畦がない?】
 いわゆる“努力した者がより報われる…”が、現場から言わしめたのは少なくともその時期、インパクトのあることでしたがその事は“本作vs捨作”(少なくとも、“本作vs転作”ではありません)が理論武装のベースになっていることを知っているヒトは当時も、そう多くありませんでした。
 そして、その理論武装に支柱を入れる出来事になったのが、H14年、道青協の畑作担当の副会長に就任して、担い手代表としてテーブルに着く『北海道農協畑作・青果対策本部委員会』でした。

 その年の春、小麦の赤カビ病のDONの問題から主産地は防除の励行徹底を委員会で確認するのですが、6月の畑対で(宮田会長が本部長で出席する最後の委員会…次月から宮田会長は全中会長に〜)その会議の終了間際、北見地区の某組合長が叱責する言葉に本作農家の主張が要約されていきます。
「私は今日、JRで札幌に来ました。小麦は穂がすっかり出そろって“あ〜今年もこのまま順調に豊作になればいいな…”と思いながら管内の小麦畑を車窓から観ていました。
 ところが、旭川にはいり上川、空知管内とみていたら少し変な違和感を覚えました。生育ステージはそれほどかわらない…よく見ると、防除の跡がないことに気付きました…
 転作農家は、転作奨励金を貰っているから真剣に作らなくていいのだろ!でも、そんな者達のせいで真面目に作っている北見、十勝の本作小麦が“道産小麦”だからとひとくくりにされ、捨て作りの小麦からDONが検出されて、売れなくなったら誰が責任をとるのか!そうなっては困るから、前々回からこの畑対でこの対策をうってきたのではないか?…ふざけるな!と言う想いだ…」
宮田本部長がこれにこたえ
「全ての転作農家がそうだとは言いません。むしろ、真剣に作っている生産者の方が多いが、そういう農家もいることも事実…きちんと、指導していかなくてはいけません。」
 本作農家にしてみれば、そんな体温のない返答には今まで辟易としてきたし、それこそが“バラマキ農政”の苗床になってきたことを、真剣に受けとめなければならなかったのに…でも、“本作”農家の今まで行き場のない叫びをぶちまけたことは、それはそれで意義のあることだったと思います。

《コラムinコラム》
〜ちなみに、前年産(H13)の道産春播き小麦は、DONのプレ検査でその基準値を超えて
自主回収をすることになるのです。
 財務当局は“麦作経営安定資金”の返金を求めますが、生産者にしてみれば
「去年と同じように作っただけで、何故今年のは返金しなくてはならないのか?」
と、『返せ、返さない』と、もめて結局、道産小麦のJA共計分から返金することとなるのですが、真面目に作っている本作小麦農家にしてみたら、やるべき防除をしていないでそれをされてしまったのでは、やるせない想いのみが積もってしまいます。(H14年産はきちんと防除をしたのでセーフでした…『今まで、やるべき事をやっていなかったのでしょー!』と言われても、言い訳できませんね…)
 そんな想いの裏返しが、“捨作”批判であり、“努力した者がより報われる…”のベースになっていったのです〜

 もし、DONの問題が発生していなかったら…そんな、捨て作批判をしようものなら、10年前の会議室なら灰皿が飛び交っていたでしょうし、今いまの構造改革路線を推進するエネルギーを持ち得なかったかも知れません。

【現場から“しかける”】
 農業構造改革の議論が進む中で、道青協副会長の就任期間に
「では、その期間もっとも印象に残っていることは?」
と、問われたら…
「H15、7月の大臣官房企画評価課の課長をリードした視察団を受け入れて、北海道畑作の政策議論を現場からしかけていったこと…」
と、こたえます。

 この時のひら農園視察を後に関係者の間や業界では『品目横断のスタートライン』と、言われていますがその想いをつなげたのは、前日の視察団の宿泊先である“トムラ登山学校レイクイン”での会食懇談の時に、スポーツ少年団談議で盛り上がった“野球理論”や、更にその前段の十勝地区農青協の幹部、OBの作戦会議で発した『俺達は苦しいが、けっしてショボくない!』でした。

 いわゆる“プロ農家”を言わしめる野球議論をしかけるきっかけになったのは、小5の長男がこの時負けマケ野球少年団のチームにあって、ゲームメイクを任されるインサイドの要、キャッチャーにコンバートされてからの思い入れに、『たとえ負けマケでも、努力して汗を流しているものにファンは拍手を送り続けるのだ…!』と、前年(H14)の米政策改革の“地域水田農業ビジョン”をユルユルにした産地や生産者の負け組議論を“生活者目線”で批判し、対して畑作農家の汗の証として、本作小麦農家のASWに負けない実需者により愛されるものを作ってきた産地の自負であることと、村立基盤を失いながら規模拡大という構造改革を推進していった主業農家の大地に嗚咽する叫びを公正正当に評価して欲しい…を、言うのでした。

「誤解を恐れないで、あえて言わしてもらえれば私達、畑作農家は“転作奨励金”をもらえないことのヒガミ根性で捨作批判を言っているのではありません。
 “穫っても、穫れなくても、もらえる補助金”では生産者は努力しないし、そこに拍手を送る者はいないということ…だから、国民は、生活者は、納税者は、消費者はそのモラルハザードをバラまき農政と批判してきていたのだし、その事にしっかりメスを入れなくてはこの改革は成功しませんよ!」
に、霞ヶ関の視察団は、その広々青々とした畑作物の生産環境を背景に、ただウンウンと頷くしかありませんでした。

《コラムinコラム》
〜前年(H14)食料庁が廃止される直前の上京時に、谷村氏(H14道青協会長)、中原氏(当時米班副会長)のお供で霞ヶ関にお邪魔して、『道青協 新たな米政策に向けた提言』を関係課長に手渡し説明をするのですが…
 中原氏の説明に某課長いわく…
「北海道の主張はわかります。やるべき事をやっているしね〜優等生ですよ。
 でも、じゃあその辺の所をたとえば千葉の米農家、茨城の米農家に分かってもらおうとしたら…どんな風に説明すればいいのでしょうね〜何か、良い知恵かしてくださいよ。」
と、生産調整に対応する方策を何ともほうけた答えではぐらかし、それ程期待していなかったものの、なんとも力の入らない霞ヶ関の対応に自身の無力さと、立ち向かわなければならないものの存在をかいま見るのです〜

 そんなことを前年に経験していたから、もしチャンスがあれば谷村氏、中原氏の忸怩たる想いのカタキをいつかうたなければ…と、思っていたので意見交換が視察団の『何故…?輪作に対して助成金が必要なのか?』の、堂々巡りに入りそうなのを以下の意見で正中線を折っていくのでした。
「(…H14の上京時、その時の霞ヶ関の対応はそんな感じでした…)…確かに、米政策改革での生産者や産地の理論武装が足りないのは反省しなければいけません。
 ただ、勘違いをして欲しくないのです。
 もちろん、この改革、制度変更は“輪作体系を基とする大規模畑作経営”…いわゆる北海道畑作、私達自身の事ですから『何か言え』と、言われれば言いますし、『何か考えろ』と、言われれば考えます。それも、小麦の収穫をしながら…甜菜の防除をしながらですが…それが本来の農夫の姿ですが、それだって私達の責任のひとつなのでしょう…
 でも、制度設計を仕掛けてフレームを作っていくのは農水省の貴方達ですよ!そのために、お給料を貰っているのでしょう?そのために、今日この現場に来たのでしょう?見るべき目で、聞くべき耳でそれを感じたのなら何をなすべきかわかるはずです。それが、霞ヶ関の、役所の存在価値のはずですし、貴方達の“仕事”です!」

 食料基地北海道の中にあってさらに農業王国である十勝農業が、この制度改革でどうにかなってしまうのなら…どうにもならないのなら…農水省の存在意義とは何でしょう?
『プレイヤーが汗を流ししっかりトレーニングをして、玄人うけのプレー(ホームランを打っても派手にガッツポーズしない5番バッター!)をしているのに、それが公正に評価されないのだとしたら、フロントの責任ですよ…』
 〜フロントがバカだから、勝てないんだ〜(ヨワトラの某投手が言っていたね…)

 野球議論をもっての宣戦布告だったと思われたでしょうか…それとも、現場の声が、その大地に起つ想いが、何かを動かしたのでしょうか…
 その年(H15)の12月には『新・食料・農業・農村基本計画審議会』が立ち上がり、主要三課題として初めて『品目横断』というフレーズが農業政策議論のテーブルに登場するのです。
 ひら農園の現地視察から5ヶ月目のことでした。

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